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映画『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』★私のたどり着いたところ




映画レビューしました。

http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id323650/rid50/p0/s0/c0/


公開されると知ったときから、楽しみにしていました。
やっと、観ることができました。


死体を運んで埋葬の旅に出る、というあらすじから、興味を持っていました。


それだけからすると、不気味ですよね。
あらすじとタイトルから、その死体は、埋葬をやりなおす=掘り起こす、と言っているのですから。


なぜ、私が興味を持ったのか?


それは、死を扱う題材だったからです。
それと、トミー・リー・ジョーンズが監督ということ。


死を扱う、と題材は、哲学的には、究極のその人の価値観が出ると思うからです。
それは、死についてだけでなく、同時に、生についても語ることでもあるからです。
心して作っているはずでしょう?
ジョーンズを個人的には、知りませんが、彼から感じる人間味は、きっと期待を裏切らないと
思っていました。


投稿した映画レビューには、物語から私が感じた感想文を書いていますが、
アメリカ・メキシコ国境では、物語でなく、”日常的な光景”があって、それを舞台としているということに、作品の重さを感じます。
陸続きで、国と境していない日本人の感覚では、わかりきれない部分もあるでしょう。

その分、ピンと来ないといえば、ピンと来ないかもしれないし、
つまらない、と言えば、つまらない作品かもしれません。

私が、観終わって、思わず、つぶやいたことは、
「間違っても、人を殺したら、償いきれるものではない.....。」
でした。
当たり前のことですが、目の前に、自分が殺してしまった腐乱死体を目の前にして
謝り続けるピートを観たとき、取り返しがつかない、とはこういうことなのだ、
と、胸に刻まれる想いがしたのです。


自殺・他殺とわず、日々、命をまっとうしていない事件を耳にします。
死んではいけない、殺してはいけない、
そんなことはわかっているはずなのに.....。
死ほど、取り返しのつかないことは、ないでしょう。

当たリ前であったとしても、わかっていなかったかもしれない私に、
”死”と”生”について、あらためて教えてくれた、作品となったのでした。



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映画『あるスキャンダルの覚え書き』★“孤独”との決別への飽くなき執念か…

146815_3.jpg


作品について  http://cinema.pia.co.jp/title/17705/
↑あらすじ・クレジットはこちらを参照してください。

(以下ヤフーレビューのほぼ転記です:ネタバレ)



定年真近の女性教師バーバラ(デンチ)は
新任の美術教師シーバ(ケイト)と、
親しくなろうと思った―

ストーリーの根幹は、それだけである。
それだけのことなのに
それが、実は、とても難しいことを
既に、無意識に経験していたことを思い知らされた。

誰かと一緒にいたい、話しをしたい、
自分をわかって欲しいし、相手のことも知りたい。
誰かとつながっていると思うことで、“孤独”を感じたくない………

そして、その誰かを自分だけのものとすることで
“孤独”と決別したいのだ。
この作品は、
“孤独”を体感しているバーバラの
“孤独”との決別の有り様を見せていたと思う。

女性は、グループでみんな仲良くというのが、苦手な気がする。
親しい特別な人が一人いれば、いいのだ。

私は、高校生の時、友人Aと親しかった。
ある時、趣味の音楽から意気投合したBと
詩の交換日記を始めた。

私は、BをAにも紹介し、AとBは、親しくなった。
私には、AとBが親しくなってくれたのが嬉しかった。
友達の輪が広がって良かった、と思った。

しかし、やがて、二人は私以上にお互いに共感したのだろう。
交換日記も、出かける予定も、二人だけでするようになってしまった。
二人は、お互いに独占しあい、私は、二人の間に入る余地がなくなってしまった。
その時の孤独感は、誰もいない教室に、一人で放り出されたようだった。
しかし、無益な争いをしたくなかった私は

何も気にしていないふうを装い、
二人との距離を感じながら、“友達”であり続けようとした…………

一方、バーバラは、“孤独”を埋め続けることに終始した。
校内の生徒の揉め事の収拾で、シーバに恩を売って近づき、
心を許した彼女の内面を、まず我が物にした。

そして

魅惑的なシーバが、教え子と関係したことに“嫉妬”しつつ
弱味として、彼女を“束縛”し“支配”した。
それを、バーバラは

“友情”と呼び、武勇伝を記すが如く、“ノート”に書き綴った………

入浴中、バーバラは思う。
この肌に誰も触れぬままで、終わっていくのか、と。
肌恋しさは、バスの運転士がたまたま手に触れた時にも、感じるほど敏感だ。
その思いは、シーバに向けられ、彼女を慰めるふりをして、
彼女の手に、腕に触れ、優しくさするよりも、もっと敏感に触れて見せた。

バーバラを変態だ、と思うのは、きっと満たされている人であろう。
“孤独”から逃れたい、という想いは、なりふり構わず、何かにしがみつきたい、
誰かに触れていたい、という思いを募らせるものだと思う。

そして、バーバラの愛猫が死に、彼女の“孤独”に拍車がかかった。
なりふり構わぬバーバラは、シーバに、息子をさて置いてでも、
自分と一緒に、猫を引き取りに行こう、と言う。

「私たちは、友達でしょう?」

バーバラは、自分の狂気じみた身勝手さを棚に上げ、
自分と猫を優先しなかったシーバの教師生命と家庭生活を壊しにかかった。
シーバと生徒との関係を極秘にばらし、
自分だけが味方のふりをして、シーバを虜にしたのだ。

しかし
シーバに、例のノートを見つけられて、真実を知られたバーバラは、
罵倒され、再び、“孤独”の中に放り出された。

けれど、シーバとの関係を破滅させた“ノート”の続きを記すべく、
懲りずに新しいノートを購入するバーバラの姿は、
“孤独”との決別への、飽くなき執念を感じさせた。
そして、次なるターゲットを見つけ、親しく声を掛けるのだった………

人は、本来“孤独”なものなのだと思う。
好意を向けた人から愛されたい、触れて欲しい、
自分だけのモノにしたい……………
けれど、“孤独”を忘れたいがために

相手を無視した自分の“孤独”の押し付けは、
結局、更なる“孤独”を招いてしまう。

デンチの1人称の語りは、バーバラの強いエゴを感じさせ、
演技とともに効果的だったと思われた。
ケイトは、美しさが弱さに重なるだけでなく、
デンチの強い存在感と渡り合える魅力を放っていた。

本来、エピソードに過ぎなかったかもしれない少年スティーブンは、
かなり光っていた。

彼ならば、”そんなこと”があっても不思議ではない、
と思える好青年で、今後の活躍に期待したいと思った。
(サッカーでゴールした時に、彼に指を差されたら、きっとドキドキすると思う。)
フィリップ・グラスの音楽も、
ストーリー展開の不安や、緊迫感を、効果的に高めていたと思う。

人の心の、触れて欲しくない部分に触れた話かもしれないが、
アカデミー賞4部門ノミネートの期待を裏切らない、
上質の心理劇だったと思う。 

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テーマ : 洋画
ジャンル : 映画

映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』★ホロ苦いノド越し




作品について http://cinema.pia.co.jp/title/19733/
↑あらすじ・クレジットはこちらを参照してください。



ネタバレして雑感です。



失恋した女の子リジーは、
ジェレミーのカフェで、売れ残って捨てられそうになった、
ブルーベリーパイを、美味しそうに食べました。


あどけない口元に、クリームをつけたまま眠ってしまったリジーは、
ニューヨークを、旅立った.....。


ジュード・ロウとノラ・ジョーンズの冒頭は、
小粋で軽妙なのに、どこか落ち着きも感じられました。
タイトルであるブルーベリーパイのアップが、印象的で、
そのカラーが、その後の作品をずっと染めているかのようでした。


リジーが出逢う、二人の女性。


警官と別れた元妻スー・リン(レイチェル・ワイズ)と
ギャンブラーのレスリー(ナタリー・ポートマン)。


この”オムニバス”は、エピソード以上のシーンでした。


ブルーベリーパイがノラで、添え物のバニラアイスが、
レイチェルやナタリーであるはずだったかもしれませんが、
ここでは、逆転していました。
レイチェルも、ナタリーも圧倒的な存在感であり、シーンのヒロインでした。


あとで、振り返ってみると、
リジーは、この二人に出会ったからといって、
失恋からの回復に、どうだったの?と思いたくもなるかもしれません。


けれど
彼女たちのインパクト(ある生き方)から若いリジーは、
恋・男性・束縛・孤独・親・信頼....etc,といった、
人生の酸いも、甘いも、見せられて、
ああ、あのときの甘酸っぱいブルーベリーパイが食べたいな、という
郷愁に似た気持ちになって、ジェレミーのカフェに帰りついた、
ということなのかもしれません。



一つ気になったのは、
リジーの口元についていたのが、白いクリームだったことです。
ラストに、再度、駄目押しで、見せるわけですから、
そこは、ブルーベリーのほうが、良かったのではないかと....。


                ......ちょっと、酸っぱいことも言ってしまいましたが、



ジュードの甘過ぎるKISS☆を、
た~くさん見せてくれるエンディングに免じマス☆


私には、なかでも
スー・リン(レイチェル)が、とても輝いて見えました。
彼女が、6年ぶりに、口にするアルコールに、火の酒ウオッカを選びます。


「美味しくない。」と言いながら、
「お酒は、味じゃないのね。」
というシーン、好きです。


心が乾いたら、ウオッカかな.....。


~~~~~~~~~~~


レイチェル・ワイズとナタリー・ポートマンのこと。


今回、初主演のノラ・ジョーンズを、食ってました。
普段、主役を張っている女優は、無意識にそんなものかと見ているのかもしれませんが、
力の差は、歴然と言う感じに思えました。
その分、ノラの初々しさが、失恋にめげた女の子、という、
か弱さにもなるかもしれないけれど...。


人生・恋。男女間の酸い・甘いという点では、
レイチェル=スー・リンとアーニーの元夫婦の関係は、
そこだけ、膨らませても、いい短編になるのではないかと思いました。


逃げたくなるほど息苦しく思う、夫の愛。
随分と年若い元妻に、捨てないでくれ、という、酒に溺れた元夫。
束縛から、離れたかった元妻が、去って、
夫は、故意か過失か、事故死してしまいます。


失ってみれば、それは、元彼でない元夫。
絆とも、腐れ縁とも呼べるような、つながりがあります。
別れても、別れられない、特別な糸が、つばがっているのです。
良くも悪くも....。


もう、法的には、他人だし、なんら関係のないはずなのに、
知らん顔できない相手なのですよ。
多分、永遠に....。


他人になっても、恐らく、一番、近い他人なのかもしれませんね.....。


ナタリー・ポートマンの演じた、レスリーと父との関係も含めて、
この2大女優のシーンは、甘酸っぱいというより、
ノド越し、ホロ苦いですね。
                    コクもあるし....。



映画『死神の精度』★死について考えるきっかけとして




映画レビューしました。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id328681/rid28/p0/s0/c0/



突然の死を、死神にゆだねて話を進める、というのは、
やはり、自分の意思では、どうにもならない力が働いていることを
題材としたいのかもしれません。


別記事か、コメントで、
死は、人の一生の一部であって、死をもって人生が完結するというように、
私は、解釈している、と言いました。
それは、死は特別なことではないから、という気持ちでもあります。
誰にでも、来ること。
特別でない、ということは重要でない、ということとは違います。
ありふれている、普通の中にも、貴重なことがあるということです。


劇中、
美容師の台詞で、特別でないが大事なこと、というのがあります。
私は、自分が思っていたことなので、共感しました。
彼女は、長い人生の辛酸をなめてきた経緯から、その言葉を言うので、
とても、重みが感じられました。
死を、当たり前のこととして、軽んじているかもしれない、
死神への戒めでも、あったようにも思えます。


誰にでもくる死。
避けられない死。


日頃、あまり死について、思うことがないかもしれません。
作品が、死について考えるきっかけになれば、意義もまたあるのではないでしょうか?



映画『許されざる者』★善悪・罪の軽重を越えて




ウイリアムは、かつて、女・子供も殺したことのある男でしたが、
妻亡き後、二人の子供と静かに暮らしていました。
娼婦を傷つけたカウボーイの殺人依頼を受け、
仲間とともに、その町へ賞金稼ぎとして、向かいました。
 

恐らく、鑑賞後の感想の1つは、
人は善悪あわせもつ、ということだったり、
人の善悪ははかれない、ということなのかもしれません。
しかし、私が、鑑賞後に感じたことは、
それをあえて、言葉にしたり、活字にすることに抵抗を感じたことでした。
というのは、
作品の冒頭とラストに字幕として綴られる、ウイリアムの妻の存在が、
この作品において、大きなウエイトを占めていたからです。
この作品はこうでした、と私がうまくまとめたつもりになってしまうと、
せっかく、この字幕が作り出している、作品の深さや広がりを
こじんまりとした小さなものにしてしまう恐れを感じたのです。
 

ウイリアムは、悔いているとはいえ、過去に犯した殺人という
最大の人格否定という罪が消えるわけではない、という前提がありますが、
現在の彼は、犯人扱いされた死者であっても、金で買われる娼婦であっても
人としての敬意を払うことができる人でした。
一方、娼婦を切り刻み、娼婦仲間から殺意を抱かれているカウボーイらは、
殺人こそしていなくても、憎むべき人になっています。
 

罪の軽重は計れても、そこにある”人間性”とは相関しないということを
突きつけられるのです。
 

ずっと人を殺していなかったウイリアムが、暗がりの中で、引き金を引いた時、
彼は、お金のための殺人でなく、理不尽な扱いを受けた人たちに成り代わっての
怒りに満ちていました。
そこには、殺人という行為が、彼の良心や正義に支えられている、という
相反するものである虚無感を感じながらも、
彼の心に詰まった熱いものを感じました。
恐らく、過去の殺人においても、今回の射殺についても
ウイリアムは、一生、悔恨と良心の呵責を背負い続けるでしょう….。

 
ラストの字幕は、
『妻の母は、なぜ、娘が、札付きの悪党と結婚したのか、その理由がついにわからなかった』
私は、この文字に救われた想いがしました。
ウイリアムの妻は、
彼を慕い、愛していたことが、間接的に、伺えます。
彼の罪は恐ろしいものであっても、妻には、
目の前にいる夫の”人間性”を信じることができたのだ、と。
それが、誰にも理解されないものであったとしても、
信頼で結ばれた強い絆を、そこに感じました。
だから、彼が背負った罪の呵責を、きっと彼女も背負い、
人間としての良心を、二人で育んできたのだ、と......。
 

ウイリアムに殺された人たちも、本当は善良な市民で
殺人犯のウイリアムも、本当はいい人……、
とは、やはりまとめられそうにありません。
善悪と罪と、良心と呵責と……。
しかし、目の前にいる人の”人間性”は信じていきたいな、
という余韻を残してくれました。



映画『魔法にかけられて』★夢でも魔法でもなく




おとぎの国のお姫様と王子様と悪い魔女。
それに、家来&友達(動物)。
それで、まずキャスティングOKですね。


そして、永遠の愛などない恐ろしいところ=現代。
そこには、父と娘、父の婚約者。
父が間に入っている、離婚しそうな夫婦。
この現代のセッティングも、OKです。


夢も希望も、永遠の愛もないという現代に生きる私に、
しばしの魔法をかけてもらいに劇場へ。


ディズニーランドを映画にしたような、楽しい歌と踊りで
浮き世を忘れる、素敵な時間が流れました。
お友達のリス・ピップは、ここぞというところでのゼスチャーが
微笑ましくて、涙ぐましくて、
スゴクいいキャラでしたね☆


夢いっぱいのお姫様ジゼル。
いい意味でも、悪い意味でも、まっすぐな王子様エドワード。
あのまま、おとぎの国アンダレーシアで暮らしていれば、
それなりの幸せは、あったのでしょうね。
しかし、
人は、知らなければ知らずに済んでも、ひとたび、知ってしまうと、
新たな価値観が生まれ、新たな生き方を模索する可能性が生まれるのですね....。


遠いところに連れていかれて、
愛する人が助けに来てくれるのを待っていたはずが、
そこで、親切にしてくれたロバートに心が動いてしまった....。
これを、おとぎ話にするのは、オキテ破りな感じが....。
大丈夫ですか、ディズニー.....。
おとぎ話の常道は、王子様と結ばれて◎でしょ?


素直に楽しめばぁ?という心の声をよそに、
自問自答....。


本当は、
エドワードだけを一途に想い続けてほしかった私が、古風なの?
さっき逢ったばかりで、結婚を決めたのが浅はかなの?
生活感のあるロバートのほうが、魅力的に思えるのも、
うなづけなくもないし.....。
エドワードは、ナルシストというか、自分しか見ていない気もするから、
結婚しても苦労するかもね。
ピップの芸達者なゼスチャーが、全然、通じていなかったし...。
かといって、家事ができなそうなジゼルは、妻として母としてやっていけるのかしら?
あ、鳥やネズミや小動物が、家事をするから大丈夫?
でも、ゴキブリには、ご飯を作ってほしくないわ...。


そんなどうでもいいことを思っているうちに、
ジゼルは、ロバートの胸に指を当てて、
彼を見つめていたのでしたね....。


夢でも、魔法でもなく、
目の前にいるその人と、まっすぐに向き合い、心を見つめ合う.....。
それが、いつまでも夢から覚めないような、永遠の愛を
手に入れる方法なのかもしれませんね☆



映画『バンテージ・ポイント』★作品が光ったなと思ったシーン




(ネタバレです)

スペインの広場で、アメリカ大統領が演説開始直後に、銃弾に倒れました。
広場は、パニックになりました。


キーとなる人物たちの視点で、同じ時間を何度も見せるのは、
中身(真相)に到達するのに、少しずつ、みかんの皮を剥いているに思えました。
そして、剥き終わったとき、見えたものは、何だったのでしょう?


男心をもてあそんだり、家族を人質にとったり、
仲間を裏切ったりした、”非情な”テロリストが、大統領暗殺をもくろんだストーリーも、
首謀者本人も、比較的早くわかります。
アメリカ側も、オメオメと大統領が殺されるようなヘマは、していないことも
わかります。


そのあとの展開は、
テロリストを追いかけるという、
カーチェイスのシーンにうまくつないで、冒頭から、上がり始めた心拍数を
下げることなく、見せてくれました。


そのあと、どう終わりましょう?
SPのメンツにかけて、デニス・クエイドにテロリストを射殺させますか?
それも、それなりの解決感があって、メデタシメデタシだったでしょう。


しかし、そうでなかった終わり方が、好きでした。
もし、SPがテロリストを射殺したとか逮捕した、という終わり方なら
つまらなかったでしょう。



テロリストは、大統領を人質にとった車で、暴走しますが、
彼らは、事故死します。
悪いことをしたから自爆したのだ、という因果応報とは異なる感覚です。
首謀者が運転していた車は、
道にいた女の子を見て、とっさによけるのです。
よけたために、車は横転するのです。


私は、あえて、ここで、”テロリストにも人間の心があった”
とは、言いません。
彼らは、前述のように、非情な行為をしてきたのですから。
もしかしたら、優しさなどとは別に、ただ障害物をよけただけかもしれません。
しかし、人の命を奪ってきた彼が、
ためらいなく、女の子を轢く事はせず、とっさによけたときに、
この作品が、光ったな、と感じたのでした。


ただし、そのおかげで、デニス・クエイドの役柄上のウエイトは、
軽くなってしまったかもしれませんが....。



映画『いつか眠りにつく前に』★私もそのような一人....?




死期の近い母親が、誰かを殺してしまった、と口走ります。
穏やかでない言葉に、娘2人は戸惑いました…….。


映画レビューしています。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id329505/rid27/p0/s0/c0/


殺した、と言っても、
この作品は、事件・犯人の真相探しが、メインではありません。
あくまでも、情に入り込んだ作品で、私の好きなジャンルでした。


登場人物たちは、どこにでもいるような母娘たちのように見えます。
そして、彼女たちは、不幸のどん底でもありませんが、
納得した幸せのなかにいるようでも、ありませんでした。
(私たちの多くが、案外、そのように生きているのかもしれません。)
母アンは、最期に来て、自分の人生を清算するまで、ずっと心の奥で
苦しんできたであろう姿を見せました。
アンの友人ライラも、それなりの幸せと不幸を同居させながら生きてきたと言わせています。


そして、アンの次女ニナ。
彼女は、今まさに、悩み苦しんでいる真っ只中の女性として登場しました。
彼氏との将来は?お腹にいる赤ちゃんは???
彼女も、あまり幸せでない人生を歩む一人と位置づけていたようですが.....。


レビューでも述べましたが、ライラの一言が、その後の彼女に光を与えてくれました。
そして、
はっきりとは見せてはいませんでしたが、
アンの臨終をうかがわせたシーンへと続きます。
さらに、駄目押しのように、海辺の夜明けのシーンへと続きます。
母が命をバトンタッチしたような、
新しい命を宿したニナは、将来を恐れることも、悲観することもなく、
未来となる新しい朝を、夫となる彼と子供という新しい家族で、
生きていけばよいのだ、と示してくれたように思いました。
どことなく、薄幸な女性たちを見せた後で、ラストは、
幸せの結末を、ニナに託したようなエンディングには、
納得できる余韻を、感じることができました。



映画『燈台守の恋』★映像の奥にあるもの




夫の助手の燈台守として、島にやってきた青年と
魅かれあってしまった人妻マベは、
夫が灯台にいるときに、密かに結ばれました。

映画レビューしています。
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id323065/rid13/p1/s0/c4/
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyep/id38412_323065/cid/rid1/p0/s0/c0/

 

夫は、大切な存在だけれど、惹かれてしまう人がいる、
ということは、善悪で考えたら”不適切”なことでしょう。
しかし、動いてしまった心を止めるのも、なかなか難しいことのようです....。
かといって、誰かを愛するのに、後ろめたさを感じる、というのも辛いことです。


青年が去ったあと、マベは女の子を産みました。
マベ夫婦には、今まで子供がいませんでした。
マベを愛していた夫は、マベを苦しめたくない、むしろ、
”二人の”子供が授かったことを祝福しようと思っていたと思います。
そのような環境の中、マベは、心の奥底で、娘の面影から、”若い彼”を感じながらも、夫と私の子、として育ててきたと思います。


真実を知りたい、知らせたい
本当のことを明らかにしたい、


世の中には、そのような考えも多いでしょう。
しかし、そのことに触れてはいけないこと、ということも
あるのかもしれません。
それは、”ごまかし”や”嘘”とも違うものです。


マベ夫婦は、口にすることでお互いを傷つけあうことはなかったと思われます。
それは、
受容し、包容するという”愛”が、
作品の序章と終幕に、登場させた娘を通して、
映像の向こう側にあることを
はっきりと、私たちに観せてくれたと思うからです。
 



映画『ビッグ・フィッシュ』★人生の完結を




今まで大ぼらを吹いていた父親の死期が近くなりました。
息子は、大ぼらを吹いていた父を理解できず、
距離を感じていました。


最近、鑑賞した「いつか眠りにつく前に」でも、感じましたが、
(映画レビューしています
http://info.movies.yahoo.co.jp/userreview/tyem/id329505/rid27/p0/s0/c0/
子供は、親に近い存在なのに、親がどんな人生を歩んできたか、
何を思って生きてきたか、実は、ほとんど知らなかったりします。
むしろ、確執が生じてしまい、疎遠になってしまうこともあるでしょう。


この作品の父子は、そのような関係でもありましたが、
いよいよ父の臨終が近くなったとき、
父は、最期も自分らしく、最期のときを大ぼらで”演出”し始めます。
最期のときくらい、と思ったか、息子も黙って聞いていますが、

「続きは、お前が話せ。」

恐らく、もう息が続かなくなってきたのでしょう。
父は、話をやめるのではなく、自分の死の”演出”を息子に託したのです。
死の間際の父の言葉です。
いつもなら、断りそうな息子も、そのまま話を続けました。
映像は、息子の語りどおりに流れていきます。
父が、今まで出逢った人たちすべてが、父の旅立ちを見送っています。
それは、あたかも新たな旅立ちを祝福しているように、
朗らかで、暖かな光景でした。

そして、いよいよ、そのときが来て.....。

池に一匹の大きな魚が放たれ、悠々と泳いで行きました...............。

私は、ここで、ジワジワと涙がにじみました。
大ぼらを吹いていた父を、軽蔑していたような息子が、
父の死に際し、父を大きな魚にしたことに。
父に負けない、大ぼらを吹いたことに...............。

ああ、息子は、父と同じところにたどりつけたのだな、と。
人生の、いい幕切れだったね、と。
幸せな最期だったね、と..........。


死は、生とは切り離せないものです。
いつか、必ず死がきます。
そして、切り離せない、と思うのは、
人生は”死”までも含んでいると思うからです。
死んだから終わり、ということではなく、
死んだときに、その人生が完結する、という感覚です。


この、父の見送りは、息子にも、幸せな時間だったと思います。
父の”人生の完結”を、父親好みに、素晴らしく演出できたのですから。



プロフィール

yutake☆イヴ

Author:yutake☆イヴ
こんにちは☆
使い方がよくわかりませんがヨロシクお願いします。^^;

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