映画『20世紀少年~最終章 ぼくらの旗』★思うこと
子供の頃の空想が、現実(世界破滅)になってしまう物語。
首謀者は、“ともだち”。
ケンヂは、幼なじみの誰かがしていることを、止めようとするが……。
“ともだち”の正体を、知りたい気持ちで見てきたのだが、
段々、誰が?ということよりも、何故?何が彼にそうさせたのか、
ということに興味を感じた。
以下、3部作を観て、思うことです。(ともだちはネタばれしてません)
長くなってしまいました><
①子供の頃と秘密基地
第一章では、現在と子供の頃が行き来する演出が、印象的だった。
それを、ケンヂたちが、記憶をたどることで、子供の頃に回帰することと感じた。
一方、本章では、“ともだち”は、世の中を、秘密基地のあった子供の頃に戻した。
ケンヂたちには、ことが起こってから、回帰した“子供の頃”だったが、
“ともだち”は、スーツを着た大人になっても、心は“秘密基地”のあった
“子供の頃”に、いたままだったのだろう。
そこには、彼がずっと求めていたものが、あったから……。
②許しがたいギャップ
『子供の頃になりたかった自分と、大人になった自分との間にあるギャップ』
それは、誰にでも、少なからずあるのだろう。
“ともだち”は、神にもなり、多くの人に囲まれた存在となったが
それは、必ずしも、望んでいた形のものでは、なかったのだろう。
彼の元に集まったのは、滅亡への恐怖でつながっていただけで、
本当の友人や仲間では、なかったと思うから。
そのギャップを埋めるには、自分が悪者になってでも、
秘密基地にいたケンヂたちと、遊ぶこと……。
“ともだち”は、極端な例かもしれないが、子供の頃が、いい意味で、
過去になってくれず、いつまでも、留まってしまうことはある。
以前、小学校の窓ガラスが割られる事件があったときに、
30歳過ぎの男性が逮捕されたことがある。
彼は、何年も前に卒業した小学校で、いじめられたことを理由に挙げた。
肯定できることではないが、窓ガラスを割ることで、過去と折り合いをつけようとしたのかもしれない。
③ ♪グータラスーダラ
ケンヂが歌う♪グータラスーダラを、人々が口ずさんだときは、
胸にじ~んときた。
そこには、何かと戦う同志のつながりではなく、ましてや、洗脳や恐怖でもなく、
何となくでも、人がつながっている温かさや安心感を感じたから。
この、何となくつながっている嬉しさは、秘密基地にあった、
心地よい感覚と同じなのかもしれない、と思った。
④犯罪者としての“ともだち”
私は、人が犯罪に至るまでには、途中で、犯罪から救われるべきだったと思う境遇が、
きっとあるのではないか、と思っている。
人類滅亡のシナリオを作った極悪人を、擁護するつもりはないけれど、
どうすれば、一人の人間を犯罪者にさせずに済んだのだろう、と思ってしまう。
過激な言動や行動をとるとき、その人は、自暴自棄にもなっていて、
他人も近づけないほど、恐ろしい存在になってはしまうけれど、
そんな時は、おそらく、自分でも止められない。
だからこそ、誰かに止めてほしい。
避けたり、無視したりしないで、自分に真剣に向き合ってほしいと思う気持ちが
破壊的な形になってしまうこともあるのだろうと。
「僕を止めてよ。」
ふざけるな!と思いながらも、“ともだち”が、憐れにも感じてしまった。
⑤“ともだち”は、誰……かどうかはともかく…
ミステリーとして、“ともだち”が誰なのか、ということが、
作品を引っ張ってきた駆動力だったとは思う。
原作とも趣向を変えて、エンドロールのあとのお楽しみにもした。
だが、エンドロールを観ながら、もう“ともだち”は、
誰でもいいような気分にもなった。
自分も、ケンヂだったかもしれないし、“ともだち”だったりしたようなことを
思い出していたからだ。
大人になって思う。
子供の頃、学生の頃を思い出すとき、それは、ただ、懐かしいな~という
思い出探しではない。
しみじみと思うのは、あの頃ほど、自分自身のことについて、腹を割って話したり
友達の話を自分のこととして受け止めたことは、なかったかもしれない、ということだ。
友達がそばにいて、とってもとっても大切な存在だった頃。
思い出せば、胸がギュ~っと苦しくなるほど、恋しく思う。
中には、思い出したくないことや、こうしたかった、という後悔もある。
でも、もう過去には戻れず、やり直すことはできない。
あるのは、未来だけだ。
良い思い出も、悪い思い出も、すべて、これからの自分に生かしていくことは出来る。
~・~・~・~・~
映画化していなければ、この作品の存在を知りませんでした。
なかなか、思うところある作品でした。
私は、観てよかったと思っています。
PS:
「『20世紀少年』、面白いね。」
と、高校生の娘。
友達は、大切にしなさいョ☆
