映画『アメリカン・スナイパー』★戦場に放り込まれた臨場感で知る彼の現実

作品について http://cinema.pia.co.jp/title/166568/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。
イラク戦争に従軍した、米軍の最強スナイパー:クリス・カイルさんの
自伝がもとになっているそうです。
予告編から、衝撃的でした。
クリスの銃の先には、イラクの子供。
武器を手にした子供には、それを使わないでくれ!と願い(クリスも私も)
武器に近づく子供には、それを拾わないでくれ!と願う……(同)
クリスたちと一緒に、従軍しているような臨場感は
その“現実”に放り込まれたような、興奮のカメラワークで
サラウンドな緊迫感に包まれつつ
クリスたちが、どう感じ、迷い、判断したのか?――を
垣間見させてくれたように思います。
(観て、感じ取ってくださいませ)
▼~▼ 内容よりも雑感です。
▼▼▼
1.イラクでのこと
クリスが子供に照準を当てる―――というのも、衝撃ですが
そういう状況が、作り出されていることが問題です。
そもそも、イラクの“市民“は、兵士ではない人たち。
武器をとることで、市民ではなくなる……?(ゲリラ戦?)
クリスらは、兵士ではない市民に、銃を向けている現実。
それとて、心にかかることだと思うのですが
武器を手にした相手に、悩む間などないので、
攻撃してくるものは、“排除“の対象になることに変わりません。
驚かされたのは、イラク人同士のこと。
アメリカ兵と会話したことを咎められ、
“仲間内”に、殺されてしまった親子がいました。
殺し方も、ドリルを手にした残忍な方法..です。
同じ国民同士なのに……
守るモノが、クリスたちとは異なるのだ、と認識します。
クリスは、9.11のあと
祖国や家族・仲間を守るため、“敵“に立ち向かう正義を、信念として
イラクに赴いていました。
紛争の混乱の中、自分を生かす強さをくれるものは、まず
信念なのでしょう。
2.帰国してから
たとえば、と言ってはなんですが
仕事でも、深刻な事態があると、自宅に帰ってもどこに居ても
そのことが頭から離れない、ということがありますよね。
クリスは、尚更。その“戦地版“と申しましょうか。
正当な理由が心にあっても、人を殺すことの重みは、はかりしれませんよね…
(『ロード・オブ・ザ・リング』の結末と重ねますが、
自分が生きるか死ぬかの想いをして守った!と思っても、
それと関係なく生きている人々とのギャップが、埋められない……
というのは、わかる気がします。)
それと、妻のこと。
夫の負担があるなら分かち合いたい、と言う思いやりは、よ~~くわかります。
けれど、負担の大きいことほど、分かち合う(理解・共有)のは難しいかも……
それを経験した人でなければ、本当にわかってもらえないのではないかと……
だから、バーで、心の準備をしてから帰宅しようとするクリスには
従軍が、どれだけの重荷を残したものかが、ひしひし伝わる。
そんなクリスだから、自分と同じ経験と苦悩を知る者の力になろうとする。
それは、自分自身にも、救いになっていたのかもしれないナ……
なのに……orz
要反転→→力になろうとした青年と出かけたクリスは、その日、彼に殺されてしまった……
3、オリンピックのメダリスト
イラク側のスナイパーも、すごい人でした。
オリンピックのメダリストだと言う。(シリアから出場)
平和の祭典:オリンピックでは、その射撃の腕は讃えられました。
表彰式の録画映像は、栄光の姿を映しています。
しかし、戦地では、精巧な殺人兵器ともいうべき姿。
彼とて、クリスとは違う“理由”で、“仕事“をしているわけですが
“栄光のオリンピック”が、ひとしお切ない……(いい演出ですね)
▼▼▼
政治・宗教・民族etc.を越えた世界平和を、心から願いつつ
きびしい現実には、(願うだけでなく)賢明な対応が求められます。
クリスが、その敵を1人、撃ったおかげで
何人もの仲間の命が、守られたこともあれば
すぐ隣にいた仲間が撃たれて、反撃したこともあった。
あるいは、自分も、撃たれていたかもしれない―――
イラクへ従軍した――ということが、どういうことなのか?
スナイパーとして、家族として、人間としての
クリスを通して、思い知らされました。
命の危険にさらされ、苦悩しながら
キレイ事では済まないことに、携わる人がいるおかげで
他の人の安全や平和が守られている――ということには
感謝や敬意、慰労の気持ちを感じます。
(汚れ仕事をしてくれる人がいるから、他の人がキレイでいられる)
ラストシーンにも、製作者の敬意を感じます。

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