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映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』★姪が取り戻したかけがえのないモノ

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/167829/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

・ベルヴェデーレ宮殿公式サイト→コチラ



第二次大戦中、ナチスに奪われた伯母アデーレの肖像画を
姪マリアが、(裁判してでも)取り戻そうとする――ということですが……


教会やユダヤ人家庭などから、ナチスが略奪した芸術品の
保管場所をつきとめて、当時、奪還しようとした様子は
映画『ミケランジェロ・プロジェクト』にありました。



その中で、無人のユダヤ人宅の壁に、絵を戻すシーンがありましたが
それは、象徴的な理想の姿で
実際は、なかなかむずかしかったんだろうな……と思われます。


当時、子供だったマリアも、“返還キャンペーン“の波に乗れたときは
すでに、80歳を過ぎていました。
ヘレン・ミレンは、ただ、見た目の高齢女性を演じたわけではありません。
随所で挿入される過去の映像から
彼女が、背負ってきた重いモノの正体に、心を動かされます。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


1.「クリムトの絵」か「個人の絵」か

アデーレの絵は、夫がクリムトに注文して描かれたもので
個人の肖像画として、自宅に飾られていたものでした。が
ユダヤ人である彼らの家から、ナチスが剥がし取って
ウィーンのベルヴェデーレ宮殿に、移動されました。


しば―――――らく、ベルヴェデーレ宮殿(美術館)に置かれていたので
その絵は、“クリムトが書いた「黄金の女性」の絵”として
公共物のような感覚になり
“オーストリアのモナリザ“とも呼ばれる。


本当は、個人が支払った所有物で
相続も遺言されていた、私的な絵だったのに……orz
美術館においたままでもいいから“返還“して!と、マリアは譲歩しましたが
美術館は、美術館のものだと譲らない(>_<)


2.遺言か遺志か


話し合いによる返還はされず、
事情で、マリアが在住するアメリカで訴訟を起こすことになります。


アデーレが、死後、ウィーンの美術館に置かれることを希望したフシもありますが
所有権は、マリアの夫にあり、相続は親族へ、と遺言していました。
(ややこしいでしょう?)


美術館は、至宝としての芸術的価値で譲れないし
マリアの弁護士は、当初は、金銭的価値(汗)でがんばりました。
けれど、マリアには
“懐かしい伯母さんの絵“――だけじゃない、譲れないモノがあったようです。


3.ウィーンへの想い


絵の返還にあたり、マリアは、
ウィーンに行く必要があるなら、及び腰になっていました。


故郷ウィーンは、思い出の場所であるけれど
ナチスと、一般の協力者からも
迫害に遭い、家財もろとも奪われ、
マリアは、泣く泣く両親を置いて、夫と逃げ延びてきたのです。
(そのシーンは、まさに生死の境を逃げきった!という緊迫感です)
アメリカ人として、すでに長く生きてきたマリアは、
あのウィーンに、戻りたくないのです…………….


↑この気持ちは、本当に、いたわしいことです……….
そのような想いの中で、“あの絵“だけは返してほしい!と
切に思うことの意味が、画面から伝わってきます。


そんなウィーンには、
自国の罪を贖おうとする青年(ダニエル・ブリュール)がいて
滞在中のマリアの助けになってくれるのが、嬉しい☆


▼▼▼


ナチスにより奪われた時間や家族は、戻りません……
壊れた幸せも、元通りにはなりません……


けれど、端的には、形ある絵は、元に戻れます。
それがすべてではないけれど
奪われっ放しでなく、“取り戻す”という行為は、
家族の尊厳をかけた気持ちだったかもしれません。


意地でも取り戻したとはいえ、個人でしまっておくのでなく
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 1」と、
アイデンティティを持ったその絵は
苦難の歴史を背負った、かつ、クリムトの名画として、
別の場所(ノイエ・ガレリエ)で展示され、
広く鑑賞できるのはありがたいことです(*^_^*)



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テーマ : 洋画
ジャンル : 映画

映画『FOUJITA』★藤田嗣治:沈んでも流されない想いwithキツネ

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/167797/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

・過去記事です→コチラ
・ウィキです→コチラ

オダギリジョーさんが、画家:藤田嗣治さん(以下フジタ)を演じます。
↑上記のとおり、フジタの人生は、ざっくり言うと
戦前、パリで活躍したあと、
第二次大戦中は、日本で、軍の要請で戦争画を描きましたが
戦後、戦争協力を非難され、再び、渡仏し、フランス国籍を取得し
帰国することなく、没っした――ということです。


そんなフジタの人生の、どこをどう、映像で見たいか――は
各人各様かと思いますが
私は、戦争画製作を非難されて、
やむなく、日本を離れざるを得なかったフジタを
観たいと思っていました。


しかし、言ってしまいますと、そこは作品にはありません。
封印?いや、そこは暗示的になっていました。
その意図は、むしろ良かったのかもしれない。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼

1.パリのフジタ~“陽”


冒頭は、パリでの生活。
前髪パッツンのフジタの姿に、本物を見たような気でいると
彼・フジタは、面相筆で、顔の輪郭をすーっと描いてみせた。
う~~ん、この“ひと筆“で、フジタ度が急激にアップし
フジタの世界に入る……


認知度が上がれば、絵が売れるので
パリでは、フーフー(お調子者)と呼ばれることを好み
バカ騒ぎをすれば自分に近づけて絵がきれいになる――と
仮装パーティ(フジタナイト)で、盛り上がるフジタ。


フジタの乳白色が生かされた絵画制作も
もちろん、披露☆


やがて、第二次大戦が勃発。
フジタは帰国する。(画面上は説明なし)


2、日本のフジタ~“陰”あるいは“深”


日本では、五番目の妻と過ごすフジタ。


戦意高揚のために描いた絵は、全国を巡回し
鑑賞者が、涙するのを見るフジタ。
玉砕の絵は、その死を看取ることができなかった戦死者の家族が、
あらためて死を悼み、悲しみを寄せていたように、思えます。


戦意高揚が目的とはいえ、その戦争画は
遺族には、視覚を通して、死者と死の痛みを、分かち合えたものに思えます。
(この絵のために責められるものでもなかったのに、という想いが感じられます)


そして、疎開先の青年に赤紙が来ました。
出発の前に、青年は、キツネに化かされる話を、フジタに語ります。
意味深でしょう?
青年の召集や、戦争も、何かに化かされているのかもしれない。
悪夢なら、早く覚めてほしい。


フジタの画家人生とて、パリの成功・戦争画・戦後の非難――
何かに化かされていたのかもしれない…….
それを象徴するかのように、そこではあたかも道化のように
将校のマントを来て、村を歩くフジタ。
いや、歩くというより、化かされて彷徨うというべきか……
そして、ダメ押しに
漫画チックなキツネが、ピョーンと跳ねていく画面―――


3.フジタ礼拝堂と川の流れ


その後、“戦後の非難“のシーンはなく
フジタ礼拝堂が映しだされます。
そんなこんなあって、渡仏し、
晩年になって、フレスコ画を手掛けた礼拝堂です。


そんなこんなあったフジタが、晩年、どんな気持ちを託して
絵を描いていたのかなぁ……というより
彷徨のあと、ここにたどり着いたのですね……と言う気持ちになります。


そして、絵(戦争画)が、川の水に浸っているようなシーンで終わります。
川ならば、流れそうですが、そこに留まっているのは、沈んだから????
(戦争画のことは、水に流そう――と言う意図ではないらしい……)


劇中、フジタが諳んじる、アポリネールの詩。
“時は流れる 私はとどまる” ――ということなんだろうか……???
そのとき、時代に否定されたとしても、
あの絵の前で涙した人の想いは、
あの絵によりどころを感じてくれたものだとしたら
あの絵は、沈む運命であったとしても
時代に流されるものではないゾ!との作者の想いなのでしょうか……

(解釈違っていたらすみません)


▼▼▼


ドキュメンタリーのような説明調ではないので
いきなり、何ページも進んでしまったような印象も、ありそうですが^^;
フジタの“戦後のダークサイド“な部分に、焦点をあてなかったことは
肩すかしではなく(汗)
敬意だったのかもしれません。


藤田嗣治として、レオナール・フジタとして――




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テーマ : 洋画
ジャンル : 映画

映画『デルス・ウザーラ』★デルスさんとの旅で見つけた“生き方“

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/7940/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

黒澤明監督の名作と聞いていましたが、あらすじすら知りませんでした。
シベリア方面を踏査した隊長の実話だそうで
“デルス・ウザーラ“とは、そ
のときガイドをしてくれた、ゴリド人狩人の名前です。
1902年と1907年の踏査―-2部構成の長編です。


内容は、デルスさんとの踏査旅のアレコレになりますが
デルスさんの名前をタイトルにしたとおり
その旅のインパクトは、
デルスさんという人間が、もたらしたものによるところ大です。


人との関係から受ける衝撃や感動は、
“あらすじ“で、まとめられるものではありませんで
この長編で、デルスさんと一緒に旅をすることで
そのインパクトのシャワーを、浴びることができます。


家族を天然痘で失い、森を住処としているデルスさんは
過酷な運命や、厳しい環境の中でも
それに沿って、生きているようでした。
何より、デルスさんの生き方には、頭が下がります。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


1.研ぎ澄まされた“生“


デルスさんは、森で、原始的に、一人で生きていて
隊員よりも、感覚が鋭敏で、射撃の命中度も高い。
町中の、便利に調達できるところに居たら
生きる技の精度が高くなくても、生きていけます。


出来なくても、悩んでも、
自分の力だけで、生きていかなければならない人は
必然的に強いです。


そして、だからと言って、無駄にあわてず、構えているんですね。
無駄に落ち込まないというか、エネルギーを無駄に使わないというか……
大事があっても、出来ることを冷静に、淡々とこなしていく。
その頼もしさには、研ぎ澄まされた“生“を感じるのです。


2、自然にも人間にも謙虚で優しい☆


一行が、森の中の小屋を去るとき、
デルスさんは、お土産”を隊長に所望します。
その“お土産”は、生きるためのわずかな物資。
デルスさんは、次に、この小屋に着いた人が困らないように
しておきたいと言うのです。
なんていい人なんだッ!!!!


途中の道でも、朝鮮人参が無いことの目印を、
知らずに取った隊員を、諭しました。
朝鮮人参を捜しに来た人が、無駄仕事をしないで済むように
目印をそのままにするようにと。


商売のため、動物を捕獲する落とし穴を、いくつも掘った者がいて
そこで、何頭も、死んだままになっている現場に遭遇しました。
狩人のデルスさんも、狩猟をしますが、
無駄な捕獲はしません。
動物が無駄死にしないように、落とし穴を回避したい。
隊員たちは、デルスさんの意向に協力しました。


そして、隊長とデルスさん二人が、ハンカ湖付近に行ったとき
“道“に迷い、吹雪に遭ってしまいました!
デルスさんの指示で、草を集めて、風よけを作ろうとするのですが
隊長は、気を失ってしまいます!!


しかし、気づけば、デルスさんが、テントのように草を積んで
吹雪を防いでくれたおかげで、隊長は死なずに目覚めることができました。
命の恩人デルスさんに感謝する隊長。しかし
デルスさんは、二人で作業したのだから、お礼は言わなくていいと……
なんていい人なんだッ!!!!
(後でも、デルスさんは自慢しないし、恩に着せない)

人は(自分含む)、良い人であろうとして、生きていると思いますが
ちょっと油断すると、
すぐつけ上がる(汗)かもしれない生き物でもありますよ…(―_―)!!


その思い上がりは、どこから来るのでしょうか……(ー_ー)!!
逆に、デルスさんの謙譲の美徳は、どこから生まれるのでしょうか…
思うに、過酷な自然環境の中で、自分が生かされていることを
とてもとても、自覚していらっしゃるからかしら………


自分は、ナニ様でもなく、この厳しい大自然の中のひとつにすぎない――
と言うことが、身に染みているからこそ、
なまくらでない、研ぎ澄まされた、真摯な生き方ができるのかも……
(自分が恥ずかしい気持ちに……(>_<))


3、運命と言うには無情な!(>_<)


そんなデルスさんも、寄る年波には勝てず
狩猟の腕も鈍り、隊長が、町での同居を勧めてくれます。
しかし、薪をお金で買うような、町の生活にはなじめず
森に帰ると言います。


隊長は、照準の合わせやすい銃を、はなむけに送り
デルスさんの森ライフが、快適であることを祈って別れます。
なのに……


デルスさんの遺体が森で発見され、隊長が確認に呼ばれました!
隊長が贈った銃はそばになく、その銃を目当てに殺されたのかもしれない――
と言う見解に…orz
善意の銃で、命を奪われた?隊長の心が痛みますよ…orz


いやいや、悪いのは犯罪者です!(キッパリ)
隊長のせいではありません。
こんなことになってしまって、
悲しみと怒りでいっぱいなエンディングですが(>_<)
敢えて、しいて言うならば
デルスさんは、森で命を落とし、(その場で埋められ)森の土になって
家族の元へ旅立った――と思えば、
少しは、慰めにならないでしょうか………………………………………………


その、わずか3年後、隊長が訪れたそこは、人の住むところとなり、
“デルスさんの墓“のあった場所も、わからなくなっていました。


デルスさんという素晴らしい人と出逢ったことを、書き残しておきたい――
その想いを、きっと強くしたと思います。
タイトルには、隊長のデルスさんへの強い友情の気持ちが、感じられます。


▼▼▼


第1部は、隊員たちが
「デルスさんは、いい人だったな」と言って終わり
第2部での、デルスさんとの再会に期待が膨らみます。


世間は、ズルくて無責任で、
自分さえよければいい人が、生き残ることもありますが(汗)
そうではない生き方をしている方も、もちろんいらして
そういう生き方をしている方の前では
自分を恥じますよ………………………


結末はアレですが(汗)
年末に鑑賞したので、なんだか、1年の垢落としをしたような清涼感♪
デルスさん、ありがとう☆




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テーマ : 昔の映画
ジャンル : 映画

映画『汚れなき悪戯』★衝撃の結末は奇跡か悲劇か感動か…

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/2823/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


映画『母と暮せば』のラストを見たとき、
この作品のラストシーンの“母と息子“を、思い出しました。


息子は、かわいいマルセリーノ坊やです。
(音楽の教科書にも、『マルセリーノの歌』がありました)
マルセリーノ坊やの、あどけない無垢の可愛さをメインに進みますが、
この可愛さあまって、衝撃かつ感動の結末になるという……(>_<)


▼~▼ ネタバレして雑感です。 (記憶違いはご容赦を)

▼▼▼


ある修道院が、地道に建立されていき、修道士も増えてきたある日
門前で、捨て子が拾われます。
子供は、マルセリーノと名付けられます。


建設的な始まりから、発展し、生活が軌道に乗ったところで
生き甲斐の希望のような命=赤ちゃんが現れる――


↑何気ない日々の生活が、子供の存在で、楽しく生き生きする。
修道士たちが、マルセリーノ~マルセリーノ~と気にかけて
愛情を注いでいる生活は、質素でも、気持ちの豊かさを与えてくれます。


とはいえ、マルセリーノ君は、やんちゃなので
おイタをしたり、修道士にあだ名をつけたりして
茶目っ気たっぷりなんですよ。
そんなマルセリーノ君は、修道士たちに、たくさん可愛がってもらって
幸せでよかったな――と思うのですが……


12人もの修道士たちに可愛がってもらっても、あるときから
マルセリーノ君は、“お母さん“という存在を知り
お母さんに逢いたい、と思い始めます。


納得させるつもりだったか、ある修道士は、マルセリーノ君に
お母さんはキレイな人で、今は、天国にいる――みたいなことを言ったかと。
(捨て子だから詳細はわからないはず…)


そんなある日、マルセリーノ君は、入室禁止部屋に行って
キリスト像を、見つけてしまいます。(逢ったというべきか)
そして、空腹のキリスト様のために、パンとワインを
人目を盗んで、持ってきてあげます。


キリスト様も、そこまでしなくていいよ、とは仰らずに
召し上がった……しかも、何回も……(像なのに?……)


そんな恩義に応えようと、キリスト様は
マルセリーノ君に、望みを叶えようと仰います。
マルセリーノ君の望みは、ただ1つでしょ☆
死んだ(らしい)お母さんに逢いたいでしょ☆
―――――と言うことは………….


マルセリーノ君は、キリスト像のそばで、光に包まれて
亡くなっていました……orz
“光に包まれた“ということで、☆奇跡☆ムードを醸し出し
感動の結末、ということになるようなのですが……


すみません。
私は、この結末に納得しておりませんのです…….
これでお母さんに逢えるから良かったね――なんて、可愛そうで言えない……


『母と暮せば』の母は、もう瀕死の状況で、ああなったわけですが
マルセリーノ君は、元気だったのですから!
(『フランダースの犬』のネロ少年も、可愛そうで見ていられない……)


孤児のマルセリーノ君が、母と、家族で暮らしたいと言うのだったなら
ルイスと未来泥棒』のように、
大人になって家族を作って暮らす、という可能性もあったはず。



少年の願いを叶えるための“奇跡“というより
この“悲劇“に、愕然としてしまった記憶が…….orz



▼▼▼


“マルセリーノの奇跡“を称える、村人の伝承として始まり、
人々の記憶に、生き続けていく――
という終わり方だったと思います。
そこに、救いがあるのかもしれません。




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テーマ : 洋画
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映画『母と暮せば』★母の願いは永遠の幸せへと


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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/166922/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

映画『父と暮せば』と対をなす作品です。
『父と暮せば』のあの哀しさを踏まえての、“母と亡き息子“という悲しみに
見るのが辛いかも……思いましたが、好評につられて鑑賞しました。


長崎の原爆で、一瞬にして消えた息子の死後3年が過ぎ
気持ちに、区切りをつけようとした母の前に
ふらっと、和やかに現われた息子:浩二。
(名前から察せられるように、浩二は次男。
長男は戦死しているという悲しみが、すでにある。)


幽霊でもいいから逢いたかった、という母の喜びにも涙ぐみ
死んで逢えるなら死にたいと思った、という言葉にも、目頭が……


ところで、戦禍の物語には、
戦争への激しい怒りや敵への憎しみが、込められることがあって
それらが、強い反戦メッセージとして伝わるものですが
恨みや憎しみが強いと辛いな……orzと感じる、今日この頃。
(甘いですか?……)

しかし、作品は、憎しみの感情でなく、
息子への深い愛が、吉永小百合さんの優しさで、全編に流れ、
反戦!というより、平和=幸せな生活を守りたい、という願いが
静かに、でも確かなメッセージとして、受け止められたのが良かったです。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。


▼▼▼


1.死を“運命”だと言った浩二

↑とはいえ、息子を奪われたことに、怒りがないわけではありません。
自分の死を“運命”だったと言った息子に、母は、怒りをあらわにしました。
自然災害ではない
人為的な戦争や原爆は、“運命“ではないと。


確かにそのとおり――なのですが
もし、浩二が、悔しさに満ちたことを言えば
母親の無念の気持ちに、追い打ちをかけてしまうでしょう…
避けられない“運命“ならば、誰も恨まないで済む?かもしれない。
(本当は違うけれど)


恨むことは、重いことです。
母親に、その重荷を背負わせたく息子の優しさが
そう言わせたのだと思います。


2.婚約者:町子のこと

当時、浩二と町子のような想いを、
残し残されたりした人は、たくさんいたと思います……


町子も、ずっと、浩二の“嫁“のまま、生きようとしていました。
一人になった浩二の母も、町子に助けられながら、生活していました。
しかし、命の時間は止まらない。
助産師だった母は、新しい命を取り上げるたびに
その子の将来の行く末(時間)について、思うことがあったと思います。


町子にも、新しい人生を生きるように勧めますが
本当は、寂しくて辛かったと思う……
本当なら、息子の嫁になって、息子の子を、自分が取り上げていたはずだもの……


だから、ついに、町子が婚約者を連れてきたとき
母は、仏壇の前で、声を詰まらせてしまった……
↑ココは、もう、無言であることが、大いに語っています!!!


多分、生きる支えにしていた“家族“=町子が
そうして、去っていったとき、(たとえ、上海のおじさんがいい人だとしても)
母は、本当に、独りになってしまったように思います。
ああ、これからどうなるんだろう……
これで、浩二の幽霊が、去っていったら、どんなに寂しいだろう……orz


3、結末はネタバレ▽~▽


▽▽▽

そのとき、眠りに入る母に背を向けて、行こうとした浩二が
振り返り、母のもとに駆け寄った!
そして、「もう二度と離れない!ずっと一緒だよ!」と母に言った。
それが、どういうことなのか……
それの意味することに、涙するのではなく
“もうずっと一緒“という息子(浩二)の言葉に嬉しくて
晴れやかな笑顔を見せている母の喜びに、涙が出た……

人は、孤独死したと憐れんだけれど
母には、息子が迎えに来てくれて、“ずっと一緒”という幸せの旅が始まっていた。
息子に逢えるなら死んでもいい
――母の悲しい願いが、今、永遠の幸せに結実した――
そう思うと、涙が、あとからあとから溢れてきて
もう、胸がいっぱいです……………………………


▽▽▽


▼▼▼


息子役の二宮和也さんの、気負わない雰囲気が
浩二のやさしさや寂しさを、見る人の心の糸に
自然に、からませて来るようでした。
(ニノさんは、そういう雰囲気いいですよね)


息子の死という、悲しみが辛いテーマだけれど、
ラストは、ハッピーエンドだと思いますよ、(*^_^*)





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テーマ : 邦画
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映画『エベレスト 3D』★実話に基づく遭難事故で教訓の体感

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/166566/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


エベレストの“体感ムービー”だと聞いて、鑑賞しました。
エベレストは、なかなか登れませんので……
気力・体力は、セサミ〇でサポートできても
入山料のナン百万円は、ムリですから……


作品は、1996年のエベレスト大量遭難事故(実話)に基づいていました。
悲劇の経緯を見せていく“体感”というのは、
アドベンチャーを楽しむ、というのではなく
生きる道を探るー自分だったらどうするーという“体感“でした。


エベレストは、一部の登山家だけの山でなく
“商業登山“で、たくさんの登山家が訪れていることに、驚きでした。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


1、ロープや梯子あり


商業登山として、“顧客“を登頂させ下山させる――
企画会社のスタッフが、登山道にロープを張ってくれているので
それに捕まって、進めます。
クレバスには、梯子を渡してあるので、恐る恐る渡れば
向こう側へ進めます。(途中には、“酸素“の予備も)

↑実は、☆エベレスト制覇☆とは、私は
ロープや梯子もない“裸“の山を、文字通り自力で登ることかと
思っていました。


これなら、登頂できそうな気がしてか
登山客がかなりいて、登山道は長蛇の列をなし、“渋滞“もする(>_<)



2.山は人間に合わせない


山の脅威は、高度や気象によるものと思っていましたが
これをみると、人間の都合が、かなり運命を左右したように思えました。


“渋滞“は、登山時間を食ってしまい、下山が遅れてしまう。
登山日程をずらして、登山人数を調整すればいいのに
商業ベースのお客様登山のため、管理統括しきれない。
“自己責任“は、各自の自由行動を、許すことにもなる……


登山は、登頂して下山するまでが登山。(遠足と同じか)
むしろ、下山がきびしい。
天候が崩れる前に、時間厳守!で、下山開始すべきなのに
あとちょっとに見える山頂に、すべてを費やしてしまう……
ガイドも、“顧客“の希望を叶えてあげたくて
山頂ではなく、死へ向かってしまう結果に……orz


あるはずのロープがなくて、ロープ張りに時間を費やされたり
あるはずの酸素が、そこに無かったら……もうどうしよう……(>_<)


ガイドは、顧客に合わせても
山は、人間にも“顧客“にも合わせない。
生きるか死ぬか――その境界線上の尾根を、歩いているのだ。


▼▼▼


どうしても、自力で、そこを動かなければならないのに
気力も体力も、尽きてしまったとき
それでも、家族からの電話の声に励まされて
がんばろう!!と力を振り絞ろうとする姿には
握りこぶしで、応援した。


この“エベレスト体感“は、惨事の体感でしたが
教訓の体感でもありました。
合掌。





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テーマ : 洋画
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映画『orange-オレンジ-』★時を翔る(かける)熱い友情にグッと来る。

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/167902/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


10年後の自分から手紙が届いた、高2の菜穂。
そこには、転校生の翔(かける)が、“事故死”しないようにとの
対策が書いてあった――


死は、取り返しのつかないことだけに
もしももしも、やり直せるなら!という想いに、託したいものがあります。


翔の“命”を救おうということは、即ち、“心“を救うことであるとわかる。
一方、それは
翔を、救うだけでなく
菜穂が、後悔から、自分をも救うことになっていた。
(情けは人のためならず?)


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼

1.菜穂ちゃんが可愛くて健気(*^_^*)


土屋太鳳さん演じる菜穂が、とにかくカワイイというか
じれったいというか^^;
花もはじらう、乙女なんですヮ。^^;


手紙のとおりに、すべきなのに
戸惑いがあって、できないの。
手作り豪華版弁当を、ハイって、翔に渡すだけであっても
渡しそびれてしまって……orz
翔は、バレバレに期待しているのに……(>_<)


ほかにも、そこここで、はじらう“間合い“がある菜穂ちゃん♪
あ.……
ずーずーしく、一歩先には行けない、乙女心☆


だから、10年後の自分が、手紙で後押しする。
翔のためだけでなく、自分のために。


翔ゥ~ と、絞り出したのは、声と勇気☆
押す時は押さないと!押してもダメなら引いてみろ!(^_-)-☆
そうして、少しずつ、未来が変わっていく。


2、マイナス要因を避けるのでなく


言ってしまいますと、実は、翔の死は自殺でした。
病気の母が自殺したことで、自分を責めていました。

↑そのことを、手紙で知った菜穂(と友人)は
翔が、心の重荷を、一人で抱え込まないようにと
気遣います。


良かったのが、リレーのこと。
運動会のリレーの選手になった翔は、ゴール近くで転んだことから
落胆することを知った菜穂らは、はじめ
翔を、リレー選手にしないように画策します。


それも、一案かもしれないけれど
翔の心に、マイナス要因を与えないことが
心を救うこととは、限りませんよね。


マイナス要因を、避けることも大切ですが、
そのマイナス要因に、打ち克てる勇気を持つことのほうが、
大切に思える。


菜穂ら親友5人は、翔と一緒にリレーすることに決め
友情のバトンを、つないで行きました。
懸命に走って、バトンをつなぐリレーは、
ふだんの運動会でも、心打つものがありますが、
アンカーの翔へと”メッセージ”をつないでいく彼らの姿には
胸が熱くなりました。


で、翔は、予言どおり?スッ転びそうにはなりますが(汗)
友情は、マイナス要因に、打ち克ちます。(^_-)-☆


3.時を翔る(かける)友情


時間を巻き戻すような物語は
やはり、過去の失敗を、やり直せることに魅力があると思う。
一方で
未来が変わってしまうことで、別の問題(いた人がいなくなる)も、
生じてしまう。


そんな矛盾を解決するのが、パラレルワールド☆


ここで、親友:須和のこと。
須和は、菜穂に好意をもっているにも関わらず、
両想いの翔と菜穂の関係を、応援している。
これは、ファンタジー(フィクション)だからかもしれないけれど
なんて、イイ奴なんだ!!!


もし、未来がガラッと変わってしまったら、“須和の未来”も変わってしまう(>_<)
それはそれで問題だ!


しかし、何であっても、翔には生きていてほしかった!という熱い想いが
パラレルワールドという現在へと、希望をつなげる!


▼▼▼


過去に遡って、もう一度、やり直すのは
切ない矛盾が、あるかもしれないけれど(汗)
友情に、矛盾はない。


きっと生きていてほしい!という熱い想いが
染め上げたような、オレンジ色の空の下。
親友たちが見つめる先のどこかで、翔は、きっと生きているんだ――
そう思うと、グッと、胸が熱くなる。



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映画『レインツリーの国』★出逢いのトキメキ~理解・和解~胸キュン♪


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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/166461/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


TV『青春探偵ハルヤ』で、貧乏な学生探偵を演じていた玉森裕太さんの
キリっとした感じが気に入って、鑑賞しました。


伸行が、愛読書の結末をネット検索して
『レインツリーの国』というブログを見つける。
管理人のひとみと、結末について、意見交換していたが
リアルに逢ってみることになった――


予告編にあるとおり、ひとみには、難聴というハンディがありました。
作品は、“聞こえ“を通して、人との関係を見せていましたが
それに関わらず、人との関係について
想うことがありました。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


1.メール交換のトキメキ☆


メールのやりとりのトキメキは
ただ、メールが来た!という嬉しさだけではありません。


リアル生活では、実際に、人に逢っているからと言っても
なんでも、心情を吐露できるわけではありません……
友達とおしゃべりしたとしても
話し言葉だけでは、あまり深く、踏み込めないし……(しつこくなっても(―_―)!!)


だから、彼らが、メールのやりとりを楽しいと思う気持ちは、よくわかる。
外見や立場など、気にすることなく
心の中身だけさらして、話ができる。
リアル生活では経験できなかった、別の“心のつながり“が、
文字だけとはいえ、リアルな生声として、その人を近い存在にしてくれる。
そして、惹かれていく。


2.ハンディのこと


ハンディは、デリケートな問題ですね。
ひとみは、初対面の伸行(以下、伸)には、難聴を知られないように
振る舞ったつもりですが、誤解を招いてしまいます。


そのこと自体は、ハンディを知ることで、理解し合えるのですが
ハンディを知ったあとの姿勢にも、デリケートなものを含む。


伸のいたわりが、同情や上から目線のように感じる、というひとみに
ショックを感じる伸。
いたわりは善意であっても、伸には、“ふつう“に接してほしいひとみ。
(↑双方の言い分ともわかる。)


耳のことで、会社内で、パワハラ・いじめ・セクハラに遭っているひとみを思うと
耳のことで、敏感に感じてしまうのもわかるけれど……


ひとみを夢中でかばうあまり、耳のことを、大衆の面前で言ってしまった伸は
デリカシーがなかった!(>_<)
動揺したひとみは、姿を消してしまった……orz
(ちなみに、私のよくないMy足のことは、言うときは言う^^;)


3.和解&理解し合うこと


ミゾが開いてしまったら、それで終わる――ということもありますが(汗)
元々、その人の“心の中“に惹かれた伸は
周辺の事情にかき回されたくらいで、中身への愛情は変わらない――
というのが、私にはうれしい。


彼女の“事情“をわかろうとする――
喧嘩のあとは、和解を探って
理解して、関係を続けようとする姿勢が、とても嬉しい(T_T)
これは、ハンディに関係なく、誰にでも言えることだと思います。


何か“良くない状況”があるとき、一方的に責める前に
何か事情があるのではないか――と思いやる余裕、ありますか?
大抵は、自分目線で、判断してませんか?


ハンディへのいたわりも、決して、上から目線などではなく
誰でも、何か抱えているだろうし
それぞれの事情で、援助を必要とする場面はきっとあって
“お互い様“目線だと思うのですよ。



▼▼▼


玉森さんの、細身なのに骨太な存在感が(*^_^*)、
わかり合おうとするひたむきさを、引き立てていました☆


レインツリーの花言葉は、胸のときめき☆
出逢ったときのトキメキは
ラストには、もっと、胸キュンにしてくれます(^_-)-☆



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映画『木曜組曲』★六花繚乱!極上の謎を残した大人の時間

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/139487/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


・浅丘ルリ子  :自宅で自殺した作家
・加藤登紀子 :編集者/同居人
・鈴木京香  :モノ書き
・原田美枝子・富田靖子・西田尚美 :モノ書き/作家の縁者

↑錚々たる女優たちの、ひしめき合いです!削除
(↓記憶曖昧なところはご了承くださいませ)



4年前の第2木曜日、耽美派の女流作家が、自宅で服毒死したとき
ダイニングで食事していた5人の女たちは
その後も、毎年、第2木曜日をはさんだ三日間、作家を偲ぶために
彼女の自宅に集まった。


4年目のその日、彼女たちあてに、届いた花束に添えられたメッセージを機に
「私が殺した」という発言が、飛び出す。
作家は自殺か?他殺だったのか?
作家の死について、女たちが語りだした――


――と言うと、作家の死の原因究明ミステリーのようですが
(その面もありますが)
自分の死に、耽美派作家ならではの、“企み”があったのがスゴイ!
(浅丘ルリ子さんが、冒頭の死体役だけであるはずがない!^^;)


▼~▼ 内容にふれて雑感です。 (結末ボカシ)


▼▼▼


作家は、晩年、“書けなくなった“ことに
モノ書きの彼女たちは、当然、気づいていたのが、いたわしい……
“書けない“コトを、一番痛感していたのは、作家本人のはずだから。
そして
晩年の“作風の変化“は、”書けない“コトでなく
別人=ゴーストの存在をほのめかす。


身内の誰かを、“後継者“にしようとしたこともわかりますが
そうまでした作家の意図は、何か?
書けないことを知りつつ、まだ認めたくないプライドのため?


あふれる才能で読者を虜にしてきた、人気作家のプライドは
浅丘ルリ子さんの表情や仕草で、十分、伝わってくる。
(ああ、読んでみたい。どんな耽美な世界に引きずり込んでくれるのか!)


一方、書けなくなった作家に対して、
彼女の“引き際”を、ほのめかす小説を書いて
送りつけたモノ書きもいたことがわかる。(彼女らの一人)


尊敬すべき作家だからこそ、駄作を世に出して、自らを貶めないでほしいー
引き際も、耽美的にキメテほしい――
という愛のムチ?であっても、“ほのめかし“の小説は
直接の言葉よりも、含むものが厚い分、ずしんと身に応えるものかと。


かくして、毒を隠し持っていた作家が、“服毒自殺“したのは
筆を置いたということですね――と納得できるけれど
かつて絶賛された作家が、簡単に幕を引いたわけではなかった!


物語が落ち着いて、油断していたときに、そのスイッチが入る。(←ニクい!)
作品の見どころの美味しそうな料理と、
テンション上がった、彼女たちのおしゃべりの中
キッチンで、ソレに気づかされる―――
そして、あらたな検証と推理が始まった…………


作家は、モノ書きの親族女子たちに、
自分の死について、書きたくなる・書かざる得なくなる・書くべきである――
という“企み“を、遺していた。


そして、“真実“は―と言うと
思いやりを、毅然とした佇まいの中に見せたアノ方が、
想いを深く、見せてくれます。(この風情は映画ならではかと)


▼▼▼


木曜日――平日のなんでもなかった日が
ある日、一生を左右する、特別な日になるかもしれない。


死者のために集った木曜日に振る舞われた、
手のこんだ美味しい料理の数々とワインは、
残された者たちに、生きている喜びと力を、与えるもののよう。


木曜日は大人の時間が流れる――と言う。(セリフより)
死と謎――という不安要素さえ、
思考と会話と、美味しい料理で楽しむ
極上のひとときは、まさに、大人の時間☆


六花繚乱というべき、魅惑の作品です♪





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映画『海難1890』★日本とトルコの時を越えた真心を忘れないように

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/164562/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


1985年、イラン・イラク戦争のとき
トルコの旅客機が、テヘランから邦人救出してくれました。
ポスターのコピーにあるように、その“理由“は、95年前、
和歌山沖での、トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難救出にあったということです。


当時、和歌山の漁村の皆さんが、命がけで、誠心誠意
瀕死のトルコ人の皆さんを助けた話を、初めて知ったとき
この素晴らしい事実が映画になって残るといいな、と思っていました。


1890年と1985年の2つの時代を見せていますが
タイトルにあるように、
1890年の海難事故の惨事の大きさと、懸命の救出に重きがあります。


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


1、海難事故(>_<)


和歌山沖で、台風に見舞われてしまう、エルトゥールル号!
(劇中にはありませんが、トルコが、わざわざその時期に帰還を急いでいた政治的理由も
あったらしく、人災?の側面も否めないらしい。)



荒れ狂う海の前には、(軍艦と言えども)帆船は、葉っぱのような頼りなさ……
海は怖いわ……
もっぱらボイラー頼みとなった果てに、水蒸気爆発を起こした船は大破し、
乗組員は、投げ出される!


爆発音を聞きつけた村人が集まり、崖の下を見ると
磯には、なんとたくさんの人間が!!!!(>_<)


それが、夜中だったので、今のように明かりも乏しい中
できるだけ火を集める村人。
救出するにも、手当するにも、やりにくかったと思います。
それでも、我がことのように、懸命に尽くしてくれる人の姿には
心打たれるものがあります。


村人は、裕福なわけではなく、その日の漁でその日を暮している
文字通り“その日暮らし”。
なのに、漁よりも、救助や遺留品捜しを優先してあげた、というのですから…….
なんて、いい人たちなんでしょう……
(自分の生活も大事だ、と言う人もいて当然ですが、その人も納得してくれる)


“貧者の一灯“という言葉がありますが
心豊かな村人の真心は、本当に尊い!と画面の端々から感じられます。


2.生き残った大尉のこと


仮死状態のところ、ハルの蘇生で命拾いしました。
が、彼は、生還したがために経験する苦悩を、体現します。
(一見、ハァ?と思ってしまうのですが^^;)


彼は、何百人という乗組員を失ったのに
(将校である)自分が生き残ったことに、罪悪感を感じたようです……
命を分ける惨事があったときに
生存に対する感謝より先に、苦悩を感じてしまうこともあるのだと思う……


逆に
それだけ、皆と一緒に、すごい目に遭ったということでしょう……
トラウマは責められません……


村人からの貴重な食べ物を、わざと、土にはたき落としたときには
なんてことを!(>_<))と思いましたが
トラウマは責められません……orz


村人が、遺留品をきれいにしていたときも
盗んだ?と。悪く誤解してしまいますが
気持ちに余裕がなかったのかも……(かばいきれない…)


月と太陽の兜飾りを、海に投げたときには
せっかく村人が回収したのにもったいない!(>_<)と思ってしまいましたが
アレは、村人の真心のこもったものを、海に眠る仲間たちへの慰霊として
投げたのでしょう………………….


そんな大尉ですが、帰還するとき、村人に深々と頭を下げたのには
胸が熱くなりました。
命を助けてくれた真心と、心の傷を和らげてくれた真心――
村人も、大尉の心が健やかになってくれたことも、喜ばしかったと思います。


3、テヘランの邦人救出


作品でもはっきり述べていますが、この“美談”には
日本が日本人を見捨てたから――と言う事実があります。


95年前の日本人の恩を、トルコの方が気に留めて下さったから
日本人を優先的に、飛行機に搭乗させて頂けましたが
それがなかったら、テヘランの日本人は、どうなっていたでしょう……


民間機のJALには、危険地帯への航行はムリと言われてしまい
当時、自衛隊に期待が集まったと思いますが
自衛隊の海外派兵につながるからとの、反対の声があり
国会での了承云々などと、タイムリミットを無視した話があったと思います。


色々な考え方があるとは思いますが
地球より重い人命を考えると、私は、納得できませんでした。
(政治やイデオロギーでなくて救命の話をしてるんだよッ!と思いました。)

個人的には、美談のほかに
このことも、覚えておきたいところです。


▼▼▼


世界には、こちらが、仲良くしようと思っても
その気のない国々もあります……orz
殺戮や蹂躙を繰り返す者たちも、います……orz


民族や宗教、価値観が違えば、
わかりあえるはずなんて、ないのかもしれない……orz


けれど、このエピソードには、本当に感激です。
人が忘れてはいけない“仁義”を感じる。


ラストには、トルコ大統領のコメントもありました。
両国の友好を、大切に☆




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映画『杉原千畝スギハラチウネ』★ユダヤ難民に命のビザ発給したその方です!

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/166485/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。

第二次大戦中、リトアニア領事として
多数のユダヤ人に、ビザを発給した杉原さん。
今では、かなり知られる人となりましたが
戦後しばらくは、「外務省には過去にもその人はいない」との
扱われようだったとは……orz

作品は、満州からリトアニアに渡った経緯から始まり
その後、激動のヨーロッパを転任し、終戦を迎えます――

本国の意に反した、ユダヤ人へのビザ発給をメインとしながらも
一方では日本のために、
迫りくる、ドイツ・ソ連の侵攻の波を、ひしひしと受けながら
外交官として情報収集した彼が、どんな立場にいたのかを
感じることができると思われます。

・参考ウィキ→コチラ


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼

1、なぜリトアニアの領事か

ソ連・モスクワへの赴任を希望していた杉原さんですが
“満州鉄道の一件“で、ソ連から拒否されてしまい
リトアニアへの赴任となりました。


と言っても、リトアニアに在留邦人は居ず
もっぱら、情報収集の拠点としてでした。
独ソ不可侵条約を結んだ両国ですが
いつ、ソ連が裏切るかもしれないし、ドイツの動きも気になる……
(ソ連は日ソ不可侵条約も破りましたもんね…)


ちなみに、情報の収集のカモフラージュに、家族でのピクニックも。
家族写真を撮りながら、国境付近やその辺をパシャパシャ。


2.“中立“のこと

ドイツが次々、ヨーローッパ諸国を占領するとともに
迫害され、行き場を失ったユダヤ系難民が大量に生じました。
橋を渡る難民の、長い長い行列が
ことの深刻さを、物語ります……


そのときの日本は、ドイツと同盟を結ぼうとする、微妙な時期。
領事館の助手も、“中立”の立場を勧め
領事館前に集まるユダヤ人たちを、見て見ぬふりをする杉原さん……


個人的な話ですが、
ある両者のどちらかに味方すべく、会議があったときのこと。
ある人が、味方しないほうが勝った場合に、その会議集団は不利になる。
どっちが勝っても不利にならないように、中立でいよう――と提案しました。
平和的?な長老らは、その意見に賛成し、“中立”となりました。
でも、私は、思いました。
中立と言うと、敵にならず、聞こえはいいかもしれないけれど
結局、味方(応援)しないことに、変わりないですよね……
どちらが勝っても保身したくて、ひより見コウモリになったとしても
どちらが勝っても、味方しませんでしたよね、となれば、干されると思う……



敵でもない味方でもない“中立“の日本領事――でしたが
刻々と、ドイツが攻め進むヨーロッパ情勢の中で
ユダヤ人の頼みの綱だったオランダが、ついにドイツに侵攻され、
いよいよ、日本経由のビザがなければ、どこにも脱出できなくなってしまった!


命のビザを求める人々が、日本領事館前でひしめくのを見て
“中立”や“平静”で、いられるはずはない…….と
映像は、訴えてきます。


3.ハルピン学院の教え(自治三訣)

外務省への確認・照会で、時間をかせぎつつ
大量のビザを手書きする(!)杉原さん。(途中からハンコも使う)


やがて、ソ連の侵入により、領事館は閉鎖されますが
ビザの発給は、移ったホテルでも
列車に乗り込む直前までも、続けられました。


日本は通過するだけ――と言っても
条件を満たしているとは限らない“難民”の大量の移動で
以降の現場には、困惑もあったようです。(JTBの方もありがとう!)
幸い、杉原さんと同窓の外交官がいたのも、人の縁かもしれません。


その母校:ハルピン学院の自治三訣を挙げます。
「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう 
そして報いを求めないように」
まさに、ユダヤ難民へのビザ発給を、諭すかのような………


▼▼▼


難民へのビザ発給だけでなく
冷静に、ナチスドイツを見ていた杉原さんですが
その情報は、本国:日本には、うまく生かされず
杉原さんが恐れたように、日米開戦となり
杉原さんが予見したように、日本は敗戦に至りました。


時代が過ぎていくことは、出来事が、風化していくこととは違う……
人々の意識も価値観も、良くも悪くも、変化していく。


一度は、いないことにされてしまった(!)杉原さんですが
忘れることのできない、多くの人々の声によって
光が当てられ、“永遠の存在“になったことは、喜ばしいことです。


人としての熱い情と、外交官としての冷静な観察眼――
杉原さんの人となりの作品を
本人の名前で(読み仮名つきで!)、タイトルにしてくれただけでも
私は、とても嬉しい☆


(人妻の振袖がちょっと気になる……^^;)






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映画『ハンナ・アーレント』★ハンナの冷静な“熟考”に目が開かれる

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作品について http://cinema.pia.co.jp/title/161943/
↑あらすじ・配役はこちらを参照ください。


ユダヤ人の政治哲学者です。
第二次大戦中、強制収容所も経験したのち
アメリカに亡命しました。


・彼女のアレコレ→コチラ

彼女の思想や活動について、語るべきことは、多々あると思われますが
作品は、1963年にニューヨーカー誌に掲載された記事
~『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』~
にまつわるエピソードから、彼女の人となりを描いています。


・アイヒマンのウィキ→コチラ

(ユダヤ人の強制収容所への移送に指揮的役割を担った。)


これには、とても、目が開かれました!!!!!!
ユダヤ人にとって、ナチスの関係者は、
誰をも憎しみの対象でしかないと思われるところですが
ユダヤ人であるハンナは、エルサレムでのアイヒマン裁判の傍聴に際して
とても冷静に、私情を制して、受け止めていました。
しかし、そのことで、彼女は、批判されてしまうのです………


▼~▼ 内容にふれて雑感です。

▼▼▼


人は、憎しみの対象が、そこにあるとき
理屈を曲げても、憎しみが収まる方向に、決着させようとするもののようです。


外国に亡命(逃亡?)していたアイヒマンを、引っつかまえて
イスラエルで裁判すること自体、ハンナは、疑問に思っていました。


しかし、ユダヤ人の多くは、捕えたアイヒマンを
血祭りにあげるがごとく、直接、彼に関係のない被害まで証言して
アイヒマンの罪の深さを、掘り下げます。


一方、ハンナが思うのは、
同胞たちは、盲目的に
あれもこれも、目の前のアイヒマンのせいにしたがるけれど
アイヒマンは、ナチス部品の一部に過ぎないものだということ――


そのことに対して、
同胞たちは、アイヒマンをかばうのか!と非難しますが
そうではないのです。
(加えて、ハンナは、収容所内のユダヤ人の中には、ナチスに従った者がいたのも事実だと
言ってしまうので、それも非難されてしまう (>_<))



歴史認識によらず、“事実“というのは、人の記憶の中にある以上
感情を伴って、存在するものです。
ですから、客観的に見ることが裁判の正しい姿であったとしても
感情の中に、正義があるならば、
感情を排した冷静な目というのは、正義とはみなされない……orz


それが、どんなにどんなに、正しいことであったとしても
人々が受け入れなければ、冷静に考察した自分は
冷徹な悪魔になってしまう……orz


ハンナは、アイヒマンについては
皆のように、恨みを晴らせるナチスの残党としての価値――とみなすのではなく
彼は、それほどの大きな責任(価値?)がある人ではなく
考えもなく、ただ、仕事を事務的にこなしていただけの人――と認識する。
(悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作るーbyハンナ)


だからと言って、彼に、人としての罪がないとは言ってないのだけれど
感情的に、叩きのめすふうでもないので
ユダヤの同胞から責められ、友人とも、亀裂が入ってしまう……orz


~~


人には、それぞれの立場や感じ方があり、
双方とも、“大人の対応“ができるとは、限りません……
強い者の言い分が、まかり通ることもあるでしょうし
“被害者“の言い分だけが正しい、と
受け止められることも、あるかもしれない……

それ以上は、ここでは、差し控えたいところですが
現実には
“事実“を、都合よく作り変えたがる人もいるし
その“事実“が真実かどうかでなく、”心情”を体現するものだーと
のたまう者もいる…
“賠償“ということもからむと、”正しさ”が、ずれてしまうこともある……(―_―)!!

―――などなど思うと、
誰をかばうでもなく、責めすぎるでもなく
冷静に判断すべきだ!ということに徹したハンナには
脱帽の想いがするのです。

▼▼▼


“被害者”のユダヤ人であるハンナが、
“加害者”である、ナチスの残党を裁いた裁判を傍聴した記事は
物議を、醸しだしましたが
それは、新たな問題提議にもなった。(思考するということ)


大多数の心情に乗っかるのも、人の道かもしれないけれど
冷静さを欠いた、感情的な恨みの目は
人を、更なる“思考停止”へと陥れ、
やはり、人として、誤った結果を、下しかねないと思います。
(なんでも、コイツ一人のせいにしとけばいいんだよ、ではダメよと)


そしてそれが、いわゆる“赦し“とも違う――というのも
深いところ☆




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