映画『解夏』☆どんな境遇でも望みたい安堵の光

作品について https://www.allcinema.net/cinema/318877
↑あらすじ・クレジットはこちらを参照してください。
(原作 さだまさし)
・隆之: 大沢たかお 小学校教師 失明に至る病に罹り長崎へ帰郷
・葉子: 石田ゆり子 隆之の恋人
・林先生: “解夏“の語を教わる
失明の恐れある病になった隆之は、職を辞し
恋人からも離れ、帰郷した。
それを知った恋人は、彼を追ってきた。
あるとき、二人は、“解夏”の話を聞いたー
▼~▼内容にふれて雑談です。 違うときスミマセン
▼▼▼
光を失うことへの恐怖は、計り知れない……
(視覚障碍の方のご不便やご苦労は、いかばかりか…
自分には、軽率な言葉しか言えないかもしれない)
隆之は、今、時々見えなくなるのは、暗い闇ではなく
白く“もや”がかかったようになるという、
不便を感じることは、恋人(葉子)への心配にもなった隆之は
先走って、別れを決めてしまyのだが
葉子に「私を見ていない!」と諭され
しばし、隆之の実家で過ごす。
葉子の言葉に気づかされるのだが
普段、気遣いをもって、人間関係を築いていても
その人の心の奥まで、入れることもなく
心の中を“見る“ことは、意識していません……
(他方、SNSでは、その人の中身しか見えないような)
特に、支障のないときは、イイ関係のままでも
思わぬ問題が起こったときに、人間関係が試される…(汗)。
イイ状態でないから別れるのは、思い遣りかもしれないけれど
一方的に去るのは。自分勝手ョ……( 一一)
葉子は、隆之と一緒にいたい。
いたいと思うだけで居るのは、甘い?
けれど、それがシンプルな基本の気持ちだと思う。
葉子の想いが、ずっと隆之にありますようにと
祈る気持ちになる。
~中略~
隆之と葉子は、林から“解夏“を知った。。
ざっくり言うと、“解夏“は
修行僧が、苦行から解放されたときで
隆之にとっては
いつ見えなくなる日が来るのかという不安が
終わったときではないかーと言うのだが…
ソレは。失明したときになる…………
考え方としては、新たな視点ではあると思うが
私は、ソレにはムリを感じた…………
いつ急に、見えなくなる日が来るのか、来るのかー
と思い悩み続けるのは、確かに苦しい……
けれど。すっかり見えなくなったときには
別の不安に襲われそうで、
“解“き放たれた気持ちに、落ち着きそうもない………
………………………………
不安や悲しみの中に居たのは
隆之の母もだった。
明るく気丈な母も、地元の歌をくちずさみながら
逃れられない“運命“に、涙をつまらせて…
そんなそれぞれの不安な日々が
隆之の失明で、解き放たれるとは
とても思えない.
思えなかったのだが…………
おそらく、たどり着きたくない到達点に
達してしまうのは、ソレまでの不安な日々よりも
もっとずっと重い事実であることは
明白なことだと思う。
解放の“解“という字をあてるような
安らかな出来事ではない。
けれど、敢えて思ってみた。
続いてきた不安の日々を、何かで終わらせることで
わずかでも、安堵を得なくてはいけない。
その先、もっと辛いところに落ちましたーでは
いけないのだ…………………………
『サムソンとデリラ』のサムソンは、光を失ったとき
初めて神の姿が見えたーと言ったが
そうでなくても
何かしらの“救い“があってほしいと願いたくなる。
(私は“受容“という理には、なかなか
達することができないのだが)
それまでの不安からの“解放”というなら
そんな考え方でもいいと思えてくる。
現実は厳しく、事実は変えられないとしても
ほんの気休めでしかないとしても
安堵の希望は、あってほしい!
切に切に、望みたい。
望みたいのだ………………………..
▼▼▼
“解夏”の意味するところは
はじめは、ムリを感じてしまいましたが(汗)
最終的には、心のどこかに落ち着きました。(*^^)v
(解釈違うかもですが 汗)
どんな境遇になったとしても
安堵や救い
一条の光は、欲しいから………

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